この道ひとすじ体験記

分院/岡本幸子きもの学院

岡本幸子(奈良)

 

幾度の試練を乗り越えて

 

 

生い立ち

 鳴門のうず潮や阿波踊りで有名な徳島県名西郡で、妹二人と弟四人の七人弟妹の長女として誕生しました。

 生後わずか三カ月で当時流行していた伝染病にかかり、命の危機を宣告させていたそうですが、母乳を飲んでいたので奇跡的に助かったと祖父から事あるごとに聞かされておりました。虚弱児で育ち、祖父母や両親には心配をかけたようです。

 父は、読書好きな勉強家の知識人で、国家公務員上級試験にトップで合格し、当時の新聞に取り上げられて時の人となったりしたそうです。出世も早く、戦後、昭和天皇陛下が全国行幸で徳島を視察された折には、ご先導を賜りました。一方、明るく健康な母は、手先が器用な働き者で、何にでも挑戦する人でした。きものはもちろん、私たちの洋服やセーターなどほとんどは、母の手作りでした。風呂上がりには髪を結い上げ、眉を引いて床につくという心がけの良い母を尊敬して育ちました。

 女学生時代に戦争が始まり勉強どころではありませんでしたが、戦後は、学校以外にお琴、茶道、華道、などを習ったりして平和な日本を味わいました。卒業後は神戸と徳島の洋裁学校に通い師範となりました。洋裁学校では、同じ年頃の女性百名が生徒でした。また、依頼されて近郊の製糸工場の女工さんのために出張教室をやったり、近所の娘さん向けに集会所を借りて洋裁を教えました。昭和二十八年一月に結婚が決まった時は、楽しかった洋裁学校を辞めて、京都に嫁ぎました。

 昭和三十年に長女が、昭和三十三年に長男が生まれて、二人の子どもに恵まれ、子煩悩な主人は、よく二人を可愛がって世話をしてくれました。

装道との出会い

 下の子が幼稚園に上がったあと、何かお稽古事をしたいと思い、誘われて近所の茶道の先生に入門しました。そんな折り、デパートでたくさんの人だかりを見かけて近寄ってみると、きもの姿の美しい方が、美容姿を使って、「ふくら雀」を結んでおられました。あっという間に手際よく仕上げられるのを見学して驚きました。これが装道を知るきっかけとなりました。その後、昭和四十五年第十三期生として入学いたしました。酒井美意子先生の講義から始まり、山中会長の愛美礼和の智慧や、右脳の働きと潜在意識の活用などの講義を拝聴させていただく度に感銘し、装道理念を学ぶにつれて、きものの奥深さに魅せられました。師範科、高等師範科、帯結びゼミとプラス思考で学び、続いて時代衣裳や現代マナー、ヘアー、そして、自分の教室と平行し、装道礼法も第一期生として忙しい毎日を送りました。

装道での活動

 私の教室活動は、養成科卒業後すぐに始まりました。まだ世の中に着付教室の無い時代で、知人の紹介でデパートのきもの教室からはじめました。大阪・神戸と知人のいない処から始まって、俳優や女優を招いてのイベントなどを経験して、少しずつ人前で話が出来るようになり、自信を深めました。

 昭和四十六年二月に、同期で友人だった河口先生に大阪のきもの学院講師として声をかけていただくなど、大変お世話になりました。また、大阪で婦人会三十名の教室が始まったり、銀行や牧方市立病院、梅花短大、大夙川大学などで一日講師として迎えられたりと、大阪での活動が多くなっていきました。

 幸せの会では、今は亡き大谷先生のグループでお世話になっておりましたが、県連へと組織替えとなった際に、最初の京都支部長を拝命しました。一九八三年度「全日本きもの装いコンテスト関西大会」を京都で開催することになり、京都らしい会場をと「京都歌舞練場」に的を絞りました。本来貸し出しをしていない場所でしたので、粘り強く交渉しました。大会は協力券も早くに完売し、満員で盛況に終わって、苦労が報われた思いがしました。この時ご指導ご協力いただきました京都地区の先生方には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

 また女子社員が約一五〇〇名在籍する大阪の会社で教室が始まり、二〇名ほどで開始したのが、最終的には半数近くの女子社員が生徒となりました。おかげ様で毎日早朝から大阪・京都の教室活動で忙しい日々を過ごしました。本来身体の弱かった私ですが、教室活動のおかげで元気になったように思います。しかし、その間、父を心臓麻痺で、八年後には母を癌で見送るという悲しい思いもしました。

 昭和六十二年十月末に奈良に引っ越して、奈良県連に参加させていただきましたが、神戸大震災の日に過労で倒れ、検査をしたところ末期の子宮癌で、なおかつ他にも転移をしていると告げられました。しかし、新しい手術法が出来た時で、手術を受けて、さらに都合三十五回のコバルト照射を受けることにより奇跡が起き、その年十月のコンテスト大会に出席することが出来ました。教室も再開いたしましたが、六年後には自身の不注意で大腿骨を骨折してしまい、三カ月の入院生活を送りました。ここでもまた、コンテスト大会を手伝いたいという思いで元気を取り戻すことが出来ました。

 それからは自宅教室のみにして、盛んになっていた県連の活動に重点を置き、帯結びや花結びに力を入れることとなりました。六年後には、二度の手術の後遺症でリンパ浮腫となりました。現在もリハビリを続けながら、奈良県連の先生方に助けていただき行事に参加させていただいております。

これから

 装道人となって四十一年を迎え、私の人生の半分は、装道とともに歩んで参りました。

 病気の度に毎日世話に来てくれた主人は、三日の入院であっという間に亡くなり先日七回忌を迎えました。私の教室活動に協力的だった人ですので、私が今も装道でお世話になっていることを喜んでくれていると思います。きものに込められた叡智を、多くの方にお伝えできるよう、これからも頑張って行きたいと思っております。また四十一年間もの長い間導いて下さった山中会長や先生方に御礼申し上げます。